ヨガインストラクターの形態 Noriの経験 その2
続きと参ります。
その1は→こちら
当時、専業フリーヨガインストラクターとしてかっ飛ばすように見えた私でしたが、
ヨガを教えているというだけで怪しまれたり警戒されたりしていた。
1995年3月にオウム真理教により地下鉄サリン事件があり、
ヨガというもの自体がオウム真理教により、誤解され危ない怪しいものと勘違いする方が増えてしまった。関係ないのに・・。
もちろんクラス前にオームを唱えるなんて絶対できません。
唱えた瞬間、お客さんは鳥肌が立ち帰られたでしょう。
怪しい雰囲気がするものは一切なし、ヨガは宗教ではありませんが、厳粛なムードが漂うの時があるのでそう見えるときもあります。
私はヨガクラスではいつも明るくフィットネス感覚で気軽にやってくださいと参加者たちに声をかけた。
内面へのアプローチはとても少なく、体重視のアプローチ、肩こりがよくなりますよとか腰痛が改善しますよとか
常に明るくふるまった。
それでも、オウム真理教の地下鉄サリン事件の影響はとても大きかった。
根強く残っていた。
ヨガクラスの参加者は極端に少なかった。
一部のマニアが受けてくださったり、私のことを気に入ってくださった会員さんが同情して参加してくれていた気がします。
突っ走ってきたけど、なんだか違うのかな。
自分の中で疑問が溢れてきた。
その頃はヨガインストラクターは希少で、どこのクラブでもヨガを教えられるのは私一人くらいだった。
まだまだ、日本ではヨガは流行っていなくて、エアロビクスとか、ヒップホップとかすごくお客さんが入っていた。
ヨガスタジオ自体が極端に少なかった、もしくはない地域のほうが多かった。
そんなとき、毎週金曜夜に教えさせていただいていた、三田ケ谷公民館でのヨガクラスが欠席者が多くなり始めた。
もちろん、私の教え方が上手でないのと経験不足なのと、若いからなめられたのだろうけど、後になってて知ることになるが、お休みする人が多いので、私はお休みした時に家でもできるように15分プログラム、30分プログラムのヨガのプログラムを作り、図と解説、やり方入りで、自分で書いたものをみなさんにコピーして手渡した。
結局、10名いた参加者が7名、5名と減り、、結局2名となり、そのクラスは消滅した。
代表の方がそれから半年後ぐらいにお会いした時に言う。
「紀子さんがあんなもの配ったから、みんながやめちゃったのよ。
あれがあれば家でできるからお金払って来る必要ないじゃない」と。
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ほんとにそれだけが理由かどうかは今でも分からない。
実力不足は間違いなかったから、23歳、24歳の私が40代~60代の女性を前にあの時は何が語れていたのだろうか。
まぁ、終わって当然だったのだろう。
その他のクラスも、集客が少なすぎるクラスはクローズとなり、
クラブ側からまたは自分から辞めたり、やめさせられたり、またはヨガ以外の違うクラスが持てないか提案された。
ヨガ以外って言っても・・・
と考えたが、昼間のスポーツクラブ勤務で、ジムスタッフとして筋トレやマシンの使い方を指導しながら、そこでは毎日のようにエアロビクス、ヒップホップが盛んに行われていた。
きらびやかなウエアを着たインストラクター、ほどばしる汗、元気な掛け声、テンポがいい曲、
スタッフをしながらも中の様子が気になった。そして参加している方々の顔が皆さん明るく輝いて見えた。
そうだ!!
エアロビクスだ!!24歳の決断でした。
それから、そこのクラブで休憩時間中にエアロビクスのクラスに参加させてもらった。
楽しい!楽しい!難しくてついていけないけど、楽しい。
なんだかすっきりする。
それからは出勤時間を無理言って10時〜15時に変えてもらい、空いた時間にエアロビクスを受けまくった。
よし!!エアロビクスのインストラクターもやろう!!ヨガと一緒に。
思い立ったらすぐ行動する癖がる私は、すぐにエアロビクスの養成コースに申込み、その時一気に30万くらい払った。
今までコツコツ稼いできたお金がすべてなくなった。
またヨガのTT代も元を取ってないのに(笑)
もちろん、これだけでは足らずあとからあとからチョコチョコ払うことになる。50万は超えたと思います。
池袋にある、ビル(今はもうない)その中のスポーツクラブでインストラクター養成コースをやっていた。
週に1回のTTとそれ以外にそこのクラブで週に3クラスはエアロビクスを受けるという条件があったが、全然苦にならなかった。
当時、土曜日クラスは集客がないためクローズになり、金曜夜は公民館での指導がなくなっていたので、金曜と土曜日メインで通った。
後は空いていた時間は羽生のスポーツクラブに入会して、エアロビクスを受けまくった。
必死で、無我夢中だった。若かったんだな。24歳。
そして25歳の時に見事TTも終わりAFAAの資格を取得した。
やったーーー。
早速、エアロビクスの資格も取り、指導ができることを各クラブの担当者や支配人に報告をする。
すぐにクラスを持たせてくれるところと、オーディションを改めてするところも。
と同時に、階段の上り下りをするような運動、ステップリーボックの資格も取った。
実を言うと、私は高校生の時に膝の靭帯を切っており、手術をして松葉づえ生活が半年ぐらいあり、激しい運動はあんまりできなかった。
エアロビだけだと激しすぎるため、自分の筋力アップ効果と、膝を守るためにもステップを始めた。
ヨガとエアロビクスとステップ。
この3つができるようになると、どこのクラブからもオファーがあった。
羽生市の講座などで、公民館などでも不定期開催ではあったがクラスを持たせてもらえるようになった。
そして、それぞれ相乗効果がある。
エアロビの生徒がステップクラスに、ステップの生徒がヨガクラスに、ヨガの生徒がエアロビにというように、生徒さんも私の担当クラスの中でいろんなクラスに参加してくれるようになった。
また、いろんなクラスが持てるのであちらこちらに飛び回らなくても、一つのクラブで週に3クラスから多いところでは4クラス程度担当させていただけるようになった。
そして、その頃には、インストラクター仲間も増え、オーディションせずに、空きが出ているクラブなどを紹介してもらい、そしてクラスを担当することもできた。
新人ではなく経験が増えてきたので、仮にオーディションをしても合格する確率が高くなってきた。調子に乗ってきた。
そして、どのクラスも集客がかなり増えてきた。
もちろん、ベテランの先輩先生のクラスに突然代講で入ると
なんだよ、こいつかよ!!
と無言で帰る人もまだいるにはいたが、そういう人も少なくなってきた。
平日昼間に持っていたスタッフ業務も更新時となり、自分から辞めさせてもらった。
クラスだけでやっていける自信があった。
夜クラスや土日クラスがメインだったが、そこのクラブに2年もいるようになると、平日昼間に空きが出ると支配人やマネージャーから声をかけてもらえることが増えてきた。
そこで、平日昼間もエアロビやステップ、ヨガのクラスを持たせてもらえるようになった。
だいたい、どこのクラブも1年契約で、どちらからも言わなければ引き続き更新だが、これを機会に遠いところは更新をやめ、自分がほんとにやりたいところに絞り始めた。
乗りに乗ってきた26歳。
まだまだだ。これからだ!!という時
26歳の冬、12月23日、高熱が出た。39度を超す。幸いその日だけは代講が見つかった。
ほんとにありがたかった。熱は全然下がりそうもなく、ぐんぐん上がる、だるい、関節がいたい、
一日3本平均でクラスを持っている私にとってこういうときは大変だ。
基本、代講というのは自分で見つけます。責任を持って。見つからない場合は休めません。
休講ってその時はなかったですね。
で、日にちが特に悪かった。12月24日、25日。クリスマスですよ。
電話をかけてもかえても口々に断わられる。たぶんそこのクラブの所属するインストラクター全員にかけたけど、代講者が見つからない。今ではlineとかメールがあるけどその時は携帯か、もってない人には自宅に電話でしたからね。
仕方がない。解熱剤を飲んでクラスをやることにした。
それとお風呂に入って熱を出し切るように熱い風呂に入った。少しだけ体が楽になった気がした。(よい子のみんなはマネしないでね)
でも、しんどすぎて吐きそうになるのを、気合だけで乗り切った。一本終わって終わりでない。
次も次も次もある。この時だけは本気で、やめたいと思った。
でも根性でやった。やりきった。
幸い26日、27日は代講してくれるインストラクターが見つかり、ゆっくり休むことができた。
少し自分を見直す時間ができた。主人に看病してもらい、母におかゆを作ってもらい、みんなに心配されている。
私はやりたいことをしているけれど、ほんとにこれでいいのだろうか?自分の中にちょっと迷いが生まれてきたのです。
1996年の年末。
そして、大みそかから元日にかけて実家に帰省した。
それまで、結婚してもまだ子供は作らないと思っていたが、正月に実家に帰った時に普段は無口で頑固な父親が
孫の顔をそろそろ見させてくれないか?と切り出された。
痛いところをつかれた。
それまで、親戚の集まりごとに(法事とか)子供はまだかとあいさつ代わりに親戚や近所の方々から言われ
うっせーな。放っておけよ!!とか内心思ってはいたが、
はじめて父親に言われ
自分は自分のエゴでやりたいことをやって、子供を作らないし、夜は毎晩遅いし、ご飯はとりあえず作ってはいるけど、義理母の負担が大きいことも見て見ぬふりをし続けていた3年間。
突っ走りすぎたのか。
頭を金づちで叩かれた気がした。
避妊をするのをやめた。自然に任せた。
それから、2月に入り、生理が遅れていることに気づく。
もしかして??
検査薬をしてみる。陽性だった。
でも、その時は素直にうれしかった。
妊娠しても続けさせてもらえるところは続け、危険だから駄目だというところは会員さんやスタッフ、支配人、マネージャーなどに詫びてやめた。
1997年10月 26歳の秋に息子を出産。
父に俺の一言のおかげだろう!!lって。
確かにそうだったかもしれない。
突っ走るだけ突っ走った3年間。
後悔はない。
未練もない。
息子がかわいい。
指導できなくても大丈夫。
息子がいるから。そう思っていた。1998年 27歳でした。(今から17年前です)
続く
Namaste